電子ノスタルジカ1
アナクロでアナログな話題が続きますと、なんか次第に気分が乗って来てしまいましてね、とうとう昔話を語るという暴挙に。はいはい、中年オヤジが昔話を語りますよ。酔っぱらいがクダを巻くみたいなモンでお嫌いな方も多いでしょうから、そんな方はどうぞスルーしてくださいまし。
ラジオやらPalmやら、またそもそものPCもそうですが、電子小物に惹かれて止まないワタシの嗜好がいかに形作られて来たかという話。
以前も書いた気がするのですが、ワタシの父はとあるメーカーに勤める電子工学の技術者でした。趣味も電子工作で、休みの日には半田ごてを握ってせっせっと何かしら作っていたものです。ですからワタシにとって日曜日の思い出は、半田のヤニのにおいの中にあります。そんな父の横でジャンク箱を引っ掻き回して育ったワタシですから、当然のようにそっち方面に目覚めて行くわけです。
プラモデルに組み込まれていたり、雑誌の工作記事をみて作ったりして、モーターをまわしたり豆電球を光らせたり、というところから始まるのは当時の少年たちの常。そして小学校高学年になった頃ですかね、あの「電子ブロック」を買ってもらったのです。いくつも組み替えられる回路の中で、やはり一番のお気に入りはラジオでした。ブザーとかアンプとか、いろいろあったのですがどうも面白くなくてですね。何種類かのラジオばかり組んでは喜んでいました。
そのうちに本格的に半田ごて握ってラジオが作ってみたくなる。どうやらゲルマラジオも作ったような記憶がうっすらとあるのですが、ワタシにとって印象が強いのは父が出張先の東京から買って来てくれた(当時福島に住んでいました)1石レフレックスラジオのキットでした。ゲルマはたぶんあまりに単純で物足りなかったのでしょう。それにくらべてこいつは、実体図どおりにプリント基板に部品を挿してハンダ付けして行くだけですが、それでもはじめて自分で作った本格的なラジオ。放送が受信できた時は感激しました。友達と阿武隈川沿いのサイクリングロードを自転車で遠出した時も、ずっとこれでラジオを聞きながら走っていた覚えがあります。今思えばモバイルのはしり!(そうかな)
この辺からもう一挙にエスカレートして行きます。通信教育でアマチュア無線の勉強をはじめたのもこの頃。電子工学で小学6年生が複素数の概念に出会ってしまうわけですから、好きなことにかける情熱というのは恐ろしいものですね。この小学6年生の夏に東京に戻り、冬には電話級アマチュア無線技師の国家試験に合格。めでたくハムの仲間入りを果たすことになります。
ところでこの時の無線従事者免許証、少年時代のかわいらしいとらじろうの写真がなんともいえません。当時まだ郵政大臣の免許だったのも面白いところ。今度発掘したらスキャンしてご紹介しましょうかね(もちろん目線は入れますが)。
この流れでお判りと思いますが、ワタシにとって電子回路との出会いは圧倒的に高周波中心でした。オーディオにはとんと縁がない。もちろんどんなラジオもオーディオ部がないと音が出ないのではありますが、つまりはワタシにとって音は鳴れば良いのであって、アンプの性能云々にはとんと興味が湧きませんで。A級とかB級とかシングルとかプッシュプルとか、単なる丸暗記でしかなかったわけです。そして最初から自分で慣れ親しんだのはトランジスタです。最近こそ真空管真空管と騒いでいますが、この頃に自作したのはたぶん父親のジャンク箱あさって単球ラジオかなにかを作ったくらいのような。
そもそも例えば同調指示でマジックアイが光るような真空管ラジオは、すでに我が家では実用の場から退いていました。マジックアイというと思い出すのは、当時我が家にあったオープンリール・テープレコーダーのレベルメーター代わりに使われていたマジックアイですね。まあ父がキットで作った白黒テレビとか、やたら図体のでかい「電蓄」とか、管球式の製品にはいろいろと囲まれていたのでありますが。それに以前も書きましたがアマチュア無線で実際に運用した時にも、オール真空管式の送受信機を用いていたのでありますが。
や、そんなこんなでこのまますすめばワタシも立派な電子技術者になれた筈。事実そんなつもりでもいたのです。しかしことはそう単純にはすすみません。次回はそんな話とかデジタルとの出会いなどを。
どうやらこう書いてくると、いなあもさんの「道の途中で」で昨年末に配信された第10回の内容と、微妙に交錯しますよねえ。そもそもあの回を「そうそう、そうだよねえ」などと頷きながら聞いて、自分もまた書きたくなった、というのが大きいような。語ってもいいのですが、ほら、ワタシの場合カッパですから(笑)